表現を躊躇わない社会
デンマークから物語教育を持ち帰り、地域✖️表現教育で「誰もが表現者」な社会を作る
みんなの応援コメント
いつき
2024年7月30日
SETDay等ではお話させていただいてありがとうございました!クラウドファンディングのお話を聞いて心からすごいと思いましたし、陰ながら応援しています!
とうま
2024年7月30日
楽しく健康に学んできてください✊報告を楽しみにしています!
FOR GOOD
プロジェクト実行者が支援金を全額受け取れるよう、支援者さまからのシステム利用料(220円+決済手数料5%)により運営しています。
みんなアーティストなんだ
2024/11/1 08:00
学校での2学期がスタートして2週間目が終わろうとしています。
今週は怒涛の週で、僕自身もフォルケホイスコーレのスケジュールって余白があるものだとちょっと強めに思い込んでいる節があったので、改めて本当に学校ごとなんだな(笑)と思っていたところです。
火曜日から木曜日にかけて3日間、[イブニングショートコース]といった形で外部のビジュアルアートの先生と、この6ヶ月を共にする仲間以外の参加者も交えてドローイングクラス(絵を描く)がありました。
普段から学校は9:00からヨガで始まるのですが、そこから16:00まで普通の授業(普段は17:00まで)、そしてこの3日間は17:00~21:30でドローイング。水曜日にはスクールトリップ的な感じでかつてここで先生をしていた方の木工アトリエに見学に行ったりと、非常に充実していました。
この6ヶ月間を通して毎週2回あるビジュアルアートのクラスでも、色彩理論だったり静物画デッサンだったりをしているので、「描く」ということが身近にあって楽しいです。
僕自身も「描くこと」が大好きでしたが、この数年間なかなか集中して絵を描く、ということはしてこなかったなあということに気づきました。絵を描くことには楽しさも失望もあります。「なんかうまく描けた!」ということも、「全然思うように描けない…」とか「隣の誰かの方が上手だ…」とか。
ドローイングクラスにも両極端の人がいて、僕の隣で絵を描いていた子は思うように立体が捉えられないこと、うまく色を使えていない気がすることにずっと悩んでいて、「正解なんてないんだし、いいじゃんいいじゃん」と隣で言っていたら「うるさい(笑)」と怒られました。
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木工アトリエで出会った主のJoelさんは刑務所の近くに住んでいて、囚人の方たちにハンマーや鋸などの使い方や、アートを教えているとのことでした。彼は刑務官に「なぜ武器になるものを囚人に使わせているのか」と言われて、「これは武器ではありません、ツールです」と答えたそうです。刑務官には、彼らを人として見ることができないのだろう、と。
アートは誰かに見下されたり、ジャッジされるべきものではない。囚人達に教えるアートは、誰かがかっこいいと思うものではなくて、その本人が美しいと思えるものを作るように伝えるのだと彼は言いました。
元来アートはそういうものであるけれど、けれど結局資本主義の世界に出場すれば「お金にならないものは価値がない」と多くの人に思われてしまう。アートなんて一部の才能ある人のものだし、自分は下手だし、学んだところで…といろんな人が思っている気がする。結局それは他者の眼差しがないところにアートが存在する意味を否定しているように最近思っていました。
彼に「評価されないアートを教える意味はなんですか?」と聞くと、彼はこう答えました。
「先生が、あなたにとって大事なことは何?と聴けること」
アートには正解がない。だから、何をしてもいいし、何を聴いてもいい。先生が教えるのはあくまでも技術だけ。技術が手に入れば、もっと自由に表現ができるようになる。先生もジャッジしなくていいから、自由に彼らが表現したことをことを純粋に聴くことができる。その対話が、その場にいる人々の考えや感性を耕す。
ドローイングクラスで隣にいたその子にも、こうしなさいという外の評価基準はなかったけれどきっと自分の中で評価基準を作ってしまっていたのだと思います。「この人よりも自分はうまくできなくて悔しい」って、きっと誰もが感じていて、だから表現することが楽しくなくなってしまうんじゃないか。
「技術習得」と「表現」は別々に認識されるべきだし、根底にある「表現する自由」と感性は常いかなる時も尊重されるべきで、尊重されていないと感じる時にも自己否定をしない逞しさや自信が必要なのだと思います。アート教育、表現教育はそういう人としての強さやあり方を学ぶところなのだと強く思った3日でした。
「3日前は全然描けなかったけど、翌日には描けるようになって、今日描いてものは自分が描いたものなのかと信じられない。描くことがとっても楽しいと初めて思えた」と話してくれた友達がいました。
高校3年生になってデッサン教室に通い始めて、毎回少しずつ、ゆっくりと描けるものが増えていったときのこと、
中学生の頃、野村哲也さんや副島成記さんのイラストに憧れて毎日落書きして、毎日昨日の自分よりも上達していることに喜びを感じていたことを思い出して、なんだかあったかい気持ちになりました。
悔しさも喜びも、プロセス(過程)。
誰もが表現者だってことを思い出せる場所、感じられる場所、それを一緒に歓び合える場所を帰ってから作りたいなあ、と強く強く思いました。
そういう美術や芸術に打ち込める場所は、美大だけじゃなくてもいいよね。きっと。
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(形を捉えること、水を描くこと、色を使うこと、どれも久々すぎてチャレンジでしたがとっても楽しかったです。シンプルに「ガラスの質感がいいね〜」などとたくさん褒めてもらって、褒めて返して、褒め合うのが嬉しく楽しい時間でした)
(先週今週とガラス細工の授業もあって感化されました。先生はこの学校の事務員のパワフルレディで、彼女も縁あってたまたま10年前からガラス細工を始めて、今こうして授業をするに至った話をガラスに触りながら聴いて、そうやって先生になることめっちゃいいなあと思いました)
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