NHUMA to GO!
PETALOを持って、
会いに来ることのできない方々のもとに
コミュニティの皆で、私たちから会いに。
行ってきました。
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PETALOを応援してくださった皆さまへ。
9月13日、私たちはいつものNHUMAを飛び出しました。
向かったのは、麗澤大学のキャンパスの中にある高齢者施設「麗しの杜」。
PETALOを持って。
ここで、NHUMAの新しい試み、
「NHUMA to GO」の第1回トライアルを行いました。
NHUMAに、
そして「はじまりのマルシェ」に来ることのできない人のところへ、
今度は、私たちから会いに行こう。
皆さまにクラファンで宣言した通り
そんな想いからあたためて準備を進めてきた、小さな試みです。

NHUMAに来られないなら、私たちから会いに行こう。
creative space NHUMAでは、
毎月第3土曜日に定例で「はじまりのマルシェ」を開催しています。
何かを売る人と、買う人。
サービスをする人と、受ける人。
そんな役割だけで分かれるのではなく、
誰かの「好き」や「得意」や「やってみたい」が持ち寄られ、
そこに居合わせた人たちの小さな会話や関わりから、その日の場ができていく。
そんな心地よい場を
マルシェという「機会」を作り、みんなで育ててきました。

でも当然ながら、
私たちのところへ来ることのできる人ばかりではありません。
身体のこと。
距離のこと。
暮らしている環境のこと。
いろいろな理由で、こちらへ来ることが難しい人もいる。
だったら、
来てもらうことだけを考えるのではなく、私たちから会いに行けばいい。
それがNHUMA to GOのはじまりです。
そうした思いやコミュニティのあり方に共感くださった
お隣の柏市にあります、見守り付き高齢者施設「麗しの杜」さんに
ご縁をいただき、トライアルをはじめました。
住宅地の一角で始まったコミュニティ。小さなマルシェを、麗しの杜へ。

この日持っていったのは、勿論PETALOだけではありません。
焼き菓子や飲みもの、
hamiiiの紅茶。
木工や紙漉きの手仕事。
メヘンディ、アロマ。
ギターの音楽。
そして、PETALOでつくる絵葉書。

いつもの「はじまりのマルシェ」に集まっている、それぞれの人の「好き」や「得意」や「つくっているもの」を持ち寄って、麗しの杜の皆さんと一緒に3時間を過ごしてみました。
当日は約20名の方が遊びに来てくださいました。
お菓子を選ぶ人。
初めて見るものについて尋ねる人。
香りを試してみる人。
手のひらにメヘンディを描いてもらう人。
ギターの音を聴きながら、お茶を飲んでおしゃべりする人。
そこには、「ものを買う」「サービスを受ける」だけではない、小さな会話や関係があちこちに生まれていました。
メヘンディを体験してくださった方からは、
「こんな体験したことがないから、本当に嬉しい」
「すてきになったわ」
という声も。
初めて出会うものを前にして、誰かの表情がふっと変わる。
そんな瞬間を、いくつも見ることができました。

でも実は。誰もPETALOをペタペタしてくれませんでした。
今回の活動報告だからこそ、これはちゃんと書いておきたいと思います。
PETALOを持っていったのですが、
今回、PETALOをペタペタしてくれた入居者さんは、ひとりもいませんでした。
ゼロでした。
これは私にとって、予想外のことでした。

NHUMAの「はじまりのマルシェ」では、PETALOをテーブルに置いておくと、子どもがペタペタしはじめ、その隣でお母さんがやってみたり、お父さんがいつの間にか夢中になっていたり。
ひとりで黙々と押す人もいれば、
「それ、何つくってるの?」
と知らない人同士の会話が始まることもあります。
子どもから、おじさん、お父さん、お母さんまで。
年齢も、絵が得意かどうかも関係なく、気がつけば誰かが手を伸ばしている。
そんな景色を、私たちは何度も見てきました。
だから私はどこかで、
PETALOなら、きっとここでも。
と思っていたのだと思います。
でも今回は、
「私、こういうの得意じゃないの」
「下手なのよ」
そんな言葉が返ってきて、なかなか最初のひと押しが始まりませんでした。
そして結局、入居者さんがPETALOを使うことのないまま、最初の一日は終わりました。
実施後に振り返ってみても、絵葉書の販売はあったものの、会場で描く体験への参加は確認されませんでした。
「わからない」「見えない」という言葉も、たくさん聞きました。
もうひとつ、今回とても印象に残ったことがあります。
開催前、館内には30枚ほどのポスターを貼らせていただきました。
「会いたくなって、会いにきました。」
「人生の物語、聞かせてください。」
そんな一言と、当日やってくる人や、持ってくるものの写真。
何もかも説明するのではなく、
見た人の想像が少し動き出すようなポスターをつくりました。
すると、何人かの方が私たちのところへ来て、
「これじゃ何をやるのかわからないよ」
「いつ、どこで、誰がやるのか、ちゃんと書いてくれないと」
と教えてくださいました。






当日も、
「字が小さくて読めない」
「私たちは見えないんだから、もっと大きく書かなきゃ」
という声をいただきました。
本当に、その通りでした。
見えにくくなっても、読めること。
初めての出来事でも、何が起きるのかわかること。
安心して「行ってみよう」と思える環境づくり。
これは私たちがもっと学び、
改善していかなければならない大切なことです。
次回はもっともっと大きく、見やすく、わかりやすくする。
これは絶対。
でも同時に別の問いも残りました。
「わかりやすくする」だけで、本当にいいのだろうか。
歳を重ねていくと、
身体には少しずつ変化が起こります。
見えにくくなること。
聞こえにくくなること。
身体が思うように動かなくなること。
新しいことを理解するのに、少し時間が必要になること。
転倒や怪我、健康への不安も増えていく。
だから周囲で支える人々は、
迷わないように。
間違えないように。
危なくないように。
困らないように。
できるだけ「わかりやすく」して、
知っているものや安心できるものを用意して、暮らしを支えていく。
安心安全の担保。
それは無論、とてもとても大切なことです。
命にも関わることだから。
もしかしたら、
そうした暮らしの中で
「これはできる」
「これは難しい」
「これはやめておこう」
と、
本人自身で知らず知らずに
自分を守りながら暮らす場面が
少しずつ増えていくのかもしれません。
でも今回、ふと思いました。
その大切な安全や安心の中で、
本当は取り除かなくてもよかったものまで、
一緒くたに暮らしの外へ取り除いてはいないだろうか。
と。
「わからないもの」に出会うこと。
世の中には、すぐには意味のわからないものがたくさんあります。
一枚の絵。
一篇の詩。
初めて聴く音楽。
知らない国の香り。
用途のわからない、美しいもの。
「これは何だろう?」と立ち止まって、
感じて、
想像して、
自分なりの意味を見つけるもの。
そこには、ひとつの正解がありません。
PETALOも、本当はそんな道具です。
何を描くための道具なのか。
どう使うのが正しいのか。
上手に描くとは、どういうことなのか。
その答えを、PETALOは持っていません。
押してみる。
重ねてみる。
色を選んでみる。
失敗してみる。
隣の人とは、まったく違うものができる。
「なんだこれ」
「なんだかわからないけど、好き」
そんな、まだ言葉にならない感覚に出会う。
PETALOを構想したときから大切にしてきたのは、そうした時間です。
「私、下手なのよ。」
だからこそ、この言葉がずっと心に残りました。
PETALOには、本当は上手も下手もありません。
正解もありません。
スタンプをひとつ押すだけでもいい。
同じかたちを何度押してもいい。
途中でやめてもいい。
何をつくっているのかわからなくてもいい。
それなのに、
「できるか、できないか」
「上手か、下手か」
というところで、手が止まった。
もちろん、たった一度の出来事だけで、その理由を決めることはできません。
PETALOの見せ方がわかりにくかったのかもしれない。
他にたくさんの素敵な催しを持っていったので選ばれなかったのかもしれません。
私たちとの間に、まだ十分な安心や関係がなかったのかもしれない。
はたまた単にその日の気分だったのかもしれない。
「高齢になると新しいことを怖がる」なんて、
簡単に結論づけることはしたくありません。
今回の私たちの観察でも、「わからない」への反応には、身体機能だけではなく、その人の人生経験や価値観、暮らしてきた文化など、さまざまなものが関係している可能性があります。だから、これは答えではなく、これから丁寧に観察していきたい問いです。
でも、PETALOを誰も押さなかったという事実と、
「わからない」
「見えない」
「私、下手なのよ」
といういくつかの言葉が、私の中でつながりました。
人間は歳を重ねた日々にこそ、よりCreativeな時間が必要。
できないことが少しずつ増えていく。
だからこそ、
「できること」を守る。
「わかること」を増やす。
安全であるようにする。
それはもちろん、とても大切。
でも、
できることを守ることと、「やってみること」を手放すことは、同じではない。
わからないものに触れてみる。
やったことのないことを、やってみる。
うまくできるかわからないまま、手を伸ばしてみる。
失敗する。「なんだこれ」と笑う。
誰かと違うものをつくる。
自分でも知らなかった「好き」に出会う。
そして、
できるかどうかではなく、ただ、感じてみる。
そういう機会まで、
「難しいかもしれないから」
「わかりにくいから」
「危ないかもしれないから」
と、知らないうちに一緒に取り除いてはいないだろうか。
そんなことを考えました。
長い人生を生きてきた人の中には、たくさんの「まだ見えていないもの」がある。
長い人生を生きてきた一人ひとりの中には、
美しいと思ってきたもの。
好きだった色。
忘れられない風景。
懐かしい匂い。
好きだった音楽。
誰にも話していない物語。
きっと、たくさんのものが眠っています。
それは、何かを「教えてもらう」ことでだけ出てくるものではないのかもしれません。
一枚の絵を見たり。
知らない音楽を聴いたり。
手を動かしたり。
香りに触れたり。
誰かと話したり。
答えのないものを目の前にしたとき、
その人の中にある記憶や感覚が、不意に動き出すことがある。
それは、
「今日は何をしてもらったか」
ではなく、
「私は、何を感じたか」
という時間。
そして、
何かを受け取るだけではなく、
「私はこう思う」
「私はこれが好き」
「私はこれをやってみたい」
と、自分から世界に何かを返していく時間。
それはとても小さいけれど、
ひとりの人が、価値の受け手だけではなく、もう一度「価値の創造者」としてそこにいる時間
なのかもしれません。
だから、ここに届けに行くことは大事なんだと思う。
今回のNHUMA to GOで、
私たちはたくさんの笑顔に出会いました。
そして同時に、
誰もPETALOを押してくれない、
という予想外にも出会いました。
でも今は、
それでよかったのかもしれない。
と思っています。
もしみんなが楽しくペタペタしてくれていたら、私たちはここまで考えなかったかもしれないから。
ご高齢になり、日々の暮らしの中から少しずつ失われやすくなるものがあるとしたら、
身体を動かす機会や、外出する機会だけではなく、
「わからないもの」と出会うこと。
答えのないものを前に、自分の感性を働かせること。
感じること。想像すること。迷うこと。つくること。
そして、
まだ知らない自分に出会うこと。
そんなCreativeな時間や対話なのかもしれない。
だからこそ、
ここへ届けに行くことは、大事なんだと思う。
来られないなら、
私たちから、会いに行く。
PETALOも、
音楽も、
手仕事も、
香りも、
おいしいものも、
そして、
「なんだろう?」という問いも一緒に持って。
「わかる」を支えながら、「わからない」を守る。
そして、
「できる」を支えながら、「やってみる」を奪わない。
これは今回のNHUMA to GOで持ち帰ってきた、
とても豊かで大切な宿題です。
次回は10月11日。
どうしたら、誰かの最初の「ペタっ」が生まれるのか。
決して、PETALOを押してもらうこと自体がゴールではありません。
その人の中にある感性が、
ほんの少し自由に動き出すこと。
「私、こういうの下手なのよ」
のあとに、
いつか、
「……でも、ちょっとやってみようかしら。」
が生まれたら。
そんな小さな変化を、私たちは見逃さずにいたいと思っています。
答えはありません。
だからこそ、再び、そして何度も何度も
心地よいペースで麗しの杜の皆さんに会いに行き、
一緒に楽しみながら続きを探していきたいと思うのです。
NHUMA to GO!
PETALOから始まった小さな創造の種を、
今度は、こちらから届けに。
そして、
そこにいる人たちと一緒に、また新しい「できる」を、
ゆっくり育てていけたらと思います。
最後になりますが、
この新たな「はじまり」を信じてくださり、
快くお力添えくださった皆さま
そして、ここで活動報告を通じて見守ってくださっている皆さまへ
心からのありがとうを贈ります。