平和を舞台で届ける
「平和」と「命」の尊さを沖縄から舞台化へ~戦後80年、対馬丸ものがたり~




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2025/5/21 14:40
\ 応援団7/ 琉球新報客員編集委員 藤原健さん

本プロジェクトの趣旨に賛同してくださっている、琉球新報客員編集委員の藤原健さんよりメッセージをいただきました。生還者である故・平良啓子さん、語り継ぐ次子さんの想い、活動などを綴っていただいています。ぜひご一読ください!
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母の心を引き継いで
平良次子さん(62)の母啓子さんが88歳で亡くなったのは、2023年7月29日朝だった。
私が事務局長を務める「沖縄戦の記憶継承プロジェクト」の勉強会にお願いしていた講話「母子が語る平和への思い」が翌月に迫り、そろそろ最終的な打ち合わせをと思い立って次子さんに電話した朝でもあった。「先ほど母は亡くなりました」。こんな形で訃報を聞くとは、想像もしていなかった。急逝だった。
啓子さんが国民学校(小学校)4年生で10歳だった1944年8月、乗船した学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に魚雷攻撃を受けて沈没。疎開児童784人を含む1484人が犠牲になった。救助された学童は59人で、啓子さんはそのうちの一人だった。小学校教諭となった戦後、平和教育に全力を尽くし、体験を語り続けた。
その体験談を、私も何度か拝聴した。いつも背筋を伸ばし、立ったままの姿勢を崩さなかった。記憶力も、全く衰えていなかった。
啓子さんは沖縄本島北部の国頭村安波に生まれた。自然豊かな別天地で、下校途中、川岸に服を脱ぎ捨て、川面まで伸びた木の枝を伝って、川に飛び込む。ウナギを捕まえ、カエルをえさに魚をおびき寄せる。聞いていた私は思わず、「ターザンみたいですね」と感想を漏らすと、「そう。でも、私は(チンバンジーを連れたターザンとは違って)サルを連れていなかったけどね」といたずらっぽく笑った。
身につけた機転、知恵とエネルギーが奇跡の生還につながる。
「対馬丸」が沈没後、6日間、いかだで漂流した。飛び上がってきたトビウオを食べて命をつないだ。漂着した島では、自力で水源を掘り当てた。
だが、仲良しだった同学年のいとこ、2歳年上の兄、祖母を含む同郷の人たちは戻ることはなかった。
わずか10歳の子どもが、生き残ったという罪悪感に襲われる戦争。何の罪もない人々や子どもを犠牲にする戦争。決して許せない。ある日の講演で配ったパンフレットに啓子さんは、こう書いた。
「戦争に加担する人たちは、人間の尊厳を失った人たちであり、真実の前に弱い人たちである。だから、私たちは真実の前に正しく、強くなければならない」
真実を見極めよう、ということだ。誤った言説で、戦争に導こうとする力に屈しないでおこうということでもある。
次子さんはいま、啓子さんが語り続けた「対馬丸」の記憶を伝える対馬丸記念館の館長の任にある。その前は、那覇市の南方に位置する南風原町の南風原文化センターで設立準備段階から活動に取り組み、館長まで務めた。
理念に平和を掲げる町の姿勢を背に89年に発足したセンターは、沖縄戦時、日本軍の陸軍病院壕があった丘のふもとにある。水や握り飯を炊事場から壕まで、ひめゆり学徒隊が桶にかついで運んだ「飯あげの道」がすぐ横を通る。
センターの多くの展示が、沖縄戦の実相を物語る。
「学童疎開」のコーナーも設けてある。南風原から九州への疎開は44年8月と9月の2回実施された。8月は引率教師、世話人など大人を含め総勢124人(9月は146人)。乗り込んだ「和浦丸」は、「暁空丸」、「対馬丸」の3隻で船団を組み、駆逐艦、砲艦に護衛されて21日、那覇港を出港。翌日、「対馬丸」が撃沈された。海に沈む「対馬丸」を南風原の子どもたちは「和浦丸」から目撃した。
次子さんはセンターを訪れた子どもたちに説明することもあった。
「私のお母さんは『対馬丸』に乗っていたの」「かわいそうに。じゃあ、死んだんだ」「だったら、私はいないよ」。「対馬丸」に生還者がいて、その人の娘さんが目の前で話をしてくれている。子どもたちにとって、戦争は「遠い昔の物語」ではなくなる。
南風原は、琉球絣の生産地としても知られる。その絣の技術から、平和につながるヒントを次子さんはつかんだ。
沖縄戦で壊滅した南風原の絣復興に尽力した人たちを、センターでの仕事の合間に訪ねては手ほどきを受けたことがある。絣を織り進む途中で不具合になる。柄の間違いも出る。そんなとき、手慣れた織り手はどうしたか。
熟練者ほど、間違いを素早く見つけ、臨機応変に対処する。作業手順に過ちが生じても、迅速で的確に対処できる熟練の織り手の技術の確かさに、次子さんは啓示が走ったような気持ちになった。
小さなほころびが大きな誤りにつながらないよう、最新の注意を払っている。「ああ、そうなんだと思える発見でした」。このときのひらめきを、次子さんは興奮気味に電話で伝えてくれた。それは、こういうことだ。
戦争という大失敗に至るまでに、実は修正できたことが何回もあったはずだ。それをなぜ、見逃したか。絣の里・南風原で平和に向かって学ぶ意味はそこにある、」と。
啓子さんが亡くなって半月後の23年8月12日。対馬丸記念館で、次子さんが啓子さんについて語る会が開かれた。私たちの「沖縄戦の記憶継承プロジェクト」で予定していた2人の講話に代わるものとして、次子さんが応えてくれた。いつもの受講生に加え、2人を慕う人たちも集まり、冒頭、黙とうをささげた。
亡くなる直前まで元気だった啓子さんについて、次子さんは「最近は精力が以前ほどには感じられなくなっていた」と話した。いつも笑顔を絶やさない朗らかな人だったが、「戦争体験を語り続けることは、それは大変なことだったのだと思うし、疲れることだったのでしょう。それでも語りをやめなかったのは、『戦争は絶対に許せない』という一心だったと思います」と続けた。
実現できなかった私たちの勉強会に向けた講話のために、準備を進めていた。当時の天候、いかだの大きさ、いかだに乗り合わせた人たちとの会話などについて次子さんが質問して啓子さんが答える形で、受講生にリアルな状況を知ってもらうような方法を考えていたという。
母の思いを反すうしながら、謙虚で静かに次子さんは言葉を紡ぐ。
いま、戦争を前提にした「台湾有事」の言説が広がる。南西諸島の軍備強化が進む。「戦争は絶対にダメです」。母の残した心を次子さんは語り継ぎ、次世代と世界につなげていきたいと強く願っている。
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藤原健さんプロフィール 1950年、岡山県生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。毎日新聞大阪本社社会部長、東京本社編集局次長、大阪本社編集局長などを歴任。2006年、「戦後60年の報道」で「平和・協同ジャーナリスト基金大賞」を受賞。2016年に沖縄に移住し、沖縄大学大学院現代沖縄研究科に入学。修士論文をもとに18年、単著『魂(マブイ)の新聞』を出版。現在、沖縄大学客員教授(沖縄戦の記憶継承ジャーナリズム論)、琉球新報客員編集委員、毎日新聞客員編集委員。ほかの著書に単著『終わりなき<いくさ>~沖縄戦を心に刻む』、共著『対人地雷 カンボジア』、同『カンボジア 子どもたちとつくる未来』など。
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