能登地震子ども支援
能登半島地震で被災した子どもたちを移動式あそび場「プレイカー」で笑顔にしたい!
みんなの応援コメント
ヒーローのファン
2024年5月30日
みんなのヒーローです、応援してます
あみつな
2024年5月30日
能登の子どもたちへ元気を届けてください!
FOR GOOD
プロジェクト実行者が支援金を全額受け取れるよう、支援者さまからのシステム利用料(220円+決済手数料5%)により運営しています。
【思い】移動式遊び場は輝ける遊び探しの場
2024/3/25 19:00
はじめまして!
移動式あそび場全国ネットワークメンバーのひーろーこと、佐藤広崇です!
一般社団法人SSKで移動式あそび場の手伝いをしながら、千葉大学大学院の環境デザイン研究室で移動式あそび場のレイアウトによる子どもの遊び方の違いを研究してます。移動式あそび場は、公園や広場、校庭、道路でさえあそび場に変化させることができます。どんなレイアウトが「コミュニケーションを促進しているのかな?」「各遊びの滞在時間が伸びているのかな?」なんてことを考えてます~。
さて、僕がなぜ能登に移住してまで移動式あそび場を能登の子ども達に届けたいと感じたかを書かせてください。
2011年3月11日、僕は小学校6年生で卒業式の練習をしていました。
集団下校で家に帰ってテレビを付けると、真っ黒な津波が家を飲み込んでいるニュースばかりで、テレビが壊れたかと思って録画していたアニメを見ていました。
母が帰ってきて、状況を教えてくれました。
「宮城のおばあちゃん家が危ない」
おばあちゃん家は宮城県の亘理にあり、阿武隈川からわずか10 mの場所に建っていました。震災から1週間後、父、姉、僕の3人で緊急車両に乗り、おばあちゃん家に行きました。
家の玄関には船が刺さっていて、家の中には土砂まみれになっていました。そのとき僕は自然の怖さと自分の無力さを感じました。
その後、僕は中学生になり、いじめに遭いました。
教室で「自分の居場所」を感じることができず、野球部で過ごす時間だけが笑顔になれる時間でした。しかし、中学から始めた野球でレギュラーになれず、なんのためにやっているのかわからないモヤモヤがありました。
(今思えば、「何をされたら相手が嫌だと感じるか」を学ぶ良い経験だったと思ってます!)
中学の友達と同じ高校になりたくなくて地元から高校まで10 kmも離れた高校を選び、電車でも地元の人に会いたくなくて、自転車通学にしました。
当時アニメ「弱虫ペダル」が流行っており、ロードバイクを両親に買ってもらいました。アニメキャラクターのようにロードバイクに乗り、周りの通勤通学しているママチャリを抜き去るのがとても楽しかったです。そして、僕はこんなことを思うようになりました!
「おれはロードバイクでなら輝けるんだ!」
移動式あそび場には、普段出会えないような遊びがいっぱいあります!僕は、移動式遊び場を通して「おれ・わたしは○○でなら輝ける!」を見つけて欲しいと思っています。その輝き方(やり方)を友達に伝えて、みんなが輝いて遊んでいる場所にしたいです!
(僕はディアボロが移動式遊び場全国ネットワークの仲間の中で一番うまいと自負しているのですが、まだ能登で週1を3回しかやっていないのに僕よりうまくなっている子が現れました(^_^;) )
(能登のあそび場での風景)
中長期的に能登の子ども達に移動式遊び場で支援し続けるためには、どうしても資金が必要になります。
どうぞご支援のほど、よろしくお願い致します。
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