温泉地の寺の存続
城崎温泉の守護寺、1300年の歴史ある温泉寺に愛の手を。




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2025/5/16 13:16
【残9日!】いよいよ明日は奉納舞!

ご支援ありがとうございます~!
サポーターのbozzoです。
いよいよ明日
と題した奉納舞をいたします。
今一度、北但大震災のもようを
豊岡市のHPより転載いたします。
大正14年5月23日午前11時9分57秒、
豊岡・城崎方面に烈震があり、
初めは 水平動、次に上下動となって多数の家屋が倒壊、
間もなく火を発し、火は24日未明 に及んだ。
震源地は円山川河口数マイルの深さ50km前後のところ、
マグニチュード7 (現在は6.8とされている)と言われている。
被害は、人家・人口が密集する
豊岡町で大きかったのは当然であるが、
総戸数・ 総人口に対する被災比でみると、
震源に近い港地区が最大で豊岡町がそれに次 いでいる。
【豊岡市史より】
城崎では272人が死亡し、その72%が女性であった。
宿の一階台所で 昼食の準備中の女性が、
家屋倒壊によって圧死ししたほか、
柱に挟まれたり 閉じ込められたまま、
襲いかかった猛火の犠牲になったケースが大半。
北但大震災の最大の犠牲者は城崎の女性達であった。
軽傷者やちょっとした物の下敷きになった者は、
無事な者に助けられ、危うく火から逃れたが、
「両足を梁に挟まれて、その苦痛に耐えられず、
ひと思いに殺してくれとせがまれ、
できないのならば刃物を貸してくれと号泣するのを、
ついに見捨てて立ち退いた。」
という悲惨な話も珍しくなかった。
【神戸新聞社編「城崎物語」より】
今回の大震災は各浴場とも入浴客に圧死、
焼死者数名を出し、真に灼熱 地獄が現れ、
6箇所の温泉中地蔵湯の一部を残して倒壊焼失し、
無慙にも 破壊された浴槽には湯気のみ無常に立ち上り、
寂莫荒涼の中に昔日の面影 を偲ばせるのみ。
【北但震災誌より】
震災当時の城崎町長である西村佐兵衛翁は、
コートに地下足袋姿、 首からメガホンをぶらさげた格好で走り回り、
町民を奮い立たせて 焦土と化した城崎を復興へと導いた。
ここからはみなとや若旦那のブログより。
当時の人口3,410人の内、272人が亡くなり
茫然自失の状態だった住民の中から立ち上がったのが
当時の町長である西村佐兵衛翁(当時43歳 西村屋4代目)、
写真の銅像はこの方です。(城崎ロープウェイ山麓駅程近く)
震災以前から床上浸水などの被害のあった大谿川の洪水対策の為、
地盤を1~2.5mかさ上げし、川の幅と深さを2倍にしました。
そこに玄武岩で積んだ護岸を作り、半円状の太鼓橋を掛け、
柳並木の美しい町並みを作り上げました。
当時は「人力車が通れない」とか「家の前に柳は目障り」など
反対の意見も多かったようですが、
今では城崎温泉の代表的風景としてなくてはならないものになりました。
また、防火対策の為に、住民に土地の一部を提供してもらい
道路を拡幅すると共に、「一の湯」など要所に
コンクリートの防火壁の家屋を配置し延焼を防ぐ工夫を施しました。
こうして、震災以前の昔ながらの風情ある温泉街を基本として、
城崎温泉は見事に復興を遂げました。
防災と景観という一見矛盾しそうな問題を組み合わせた
城崎温泉の復興は我が国における「三大復興」と位置づけられ、
世界に誇るべき都市復興遺産だと評されています。
先日の火災でも
コンクリートの防火壁が効力を発揮しました。
城崎温泉を代表する木造3階建ての旅館や、
玄武岩の護岸、大谿川の太鼓橋などは、
当時の町長、西村佐兵衛翁の先見の明で
出来上がったモノ。
若旦那も書いていますが、
今を生きる私たちも目の前だけではなくしっかりと未来を見据えて
長尺な時間感覚で、物事に当たるべきだと思います。
『北但大震災 百年の祈り』お待ちしております。
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