戦争の記憶を未来へ
戦後80年。広島での対話を記録に残し、未来の平和教育につなぎたい!




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2025/9/27 11:00
長崎に行ってきました

いよいよラストスパートとなりました!応援いただいた皆様、本当にありがとうございます!
夏のティーチャーズ・ギャザリングで、今回あらためて平和祈念公園の資料館や本川小学校平和資料館などを訪ね、あらためて多くのことを学ぶ機会となりました。広島はご縁があって何度も訪れていたのですが、これまで長崎の原爆遺構を訪ねたことがありませんでした。そのことがずっと気になっていたのですが、たまたま9月に長崎を訪れる機会があったので、帰りに長崎市内を巡りました。以下、写真レポートをお届けします。
原爆落下中心地の碑
爆心地から天を仰ぎ見ると、この日はよく晴れた日で青空が広がっていました。80年前、その空にB29が飛来して一瞬にして多くの命を奪っていったことが信じられません。
修復・復元された浦上天主堂。長崎は江戸時代からキリスト教の街でもある
丘陵や山に囲まれた長崎の地形は、平地が広がる広島とはまったく違っていて、地形の違いは被害の様相の違いにつながっています。山に守られた地域もあったようですが、谷を流れる中島川に沿って長崎港に至るまでが壊滅的な被害となりました。
長崎原爆資料館では原爆投下までの経緯と、戦後に核が拡散されていく現在までの年表が壁一面に展示されていました。田中聰司さんの話を聞いた後だったので、田中さんの人生やメッセージと重ね合わせて、この年表を見ていました。原爆で被害にあった人たちの人生をあざ笑うかのように、第二次世界大戦後の世界で無数の核爆弾が作られ、幾度となく核実験が繰り返されていくんです。これは辛い、辛かったでしょう。田中さんの言葉で「戦後80年というと過去に意識が向かうが、核の時代80年と考えれば未来に向かってどうしようかという意識になる」という話が心に残っているのですが、そのことを思いながら、今なお12000発以上の核爆弾がある世界の現実の恐ろしさを感じることとなりました。
城山小学校平和祈念館
爆心地から西に500メートルの位置にあった城山小学校(旧:城山国民学校)は最も大きな被害を受けた学校です。当時市内にいた教員31人のうち28人が、児童1500人のうち1400人以上が亡くなったそうです。生き残った教員が生徒を神社に集め、困難な状況の中、授業を再開した話も残っていました。その思いがつながったのでしょう、城山小学校は今も開校していて、訪ねたときにも校舎から子どもたちの元気な声が聞こえていました。倒壊を免れた階段棟(写真)が今は平和祈念館になっています。毎月9日に平和祈念式を行っているほか、6年生は語り部として、訪れる修学旅行生の案内もするそうです。この学校に通った子たちは平和への強い願いを持って大人になっていくのだろうと思います。
山王神社は半分が吹き飛んでしまった鳥居(表紙写真)がよく知られていますが、この写真の被爆クスノキの話は知りませんでした(長崎出身の福山雅治さんが「クスノキ」という曲を書いてました)。爆風で黒焦げになって一時は枯死したと考えられていた2本のクスノキが、2年後に新芽を吹いて復活し、それから約80年経って、ここまでの樹勢に回復していました。写真では伝わらないかもしれませんが、2本の木が一体となって見えるようで、ほんとに見事なクスノキでした。広島でも長崎でも、失われた命の重さを感じて心がずーんと沈んでいましたが、この木の生命力の勢いを見て、救われた気持ちになりました。
平和であることを当たり前と思わず、日常を大事に生きる。城山小学校の子どもたちの声、クスノキの緑、青い空。それが未来の平和へ向かう強いイメージとして残った旅でした(上田壮一)
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